二〇〇四年正月二日、この日よりたい肥を投入して耕起を始めようと、番圃場に入って愕然とする。足元に異様な感触。目を凝らすとそこには大量のガラス片、ワンカップの酒瓶・・・・・・。年末のうちであろうか、何者かが厚いガラス板を大量に投げ込み、さらに念を入れて、こぶし大よりも大きい程の石を上から投げて割ったものである。一緒に散乱する酒瓶は投げ入れた者の心の荒廃を示しているようで情けない。

 思えば昨年7月、この田には大型車のものと思われる廃タイヤが、投げ入れられた事があった。炎天下連日草取りに入っている最中の事である。僅か一時間の昼食休憩から戻ると、草取りを終えたばかりの田の、必死に育とうとしている稲を押し潰していた巨大廃タイヤ。悪意を感じながらも、通りすがりのトラックの荷台から落ちたタイヤかと、その時は解釈した。人の手で投げ入れられたとしか思えない距離に、その古タイヤは投げ込まれてはいたが、そんな意地の悪い行為が白昼堂々と行われたとは思いたくない。そんな思いでその時は黙ってタイヤを担ぎ出した。 けれど今回のガラスは、どう考えても悪意ある嫌がらせとしか思えない。

 有機栽培をはじめた頃は、田植水を止められたり、稲刈りの最中に水を入れられたりと、それなりに妨害もあり意地悪もあって、その度になにくそと思い、いつか有機栽培をわかってもらえる日がくると自分に言い聞かせて耐えてきた。以来十年余りを経て、それなりに技術を確立し、消費者にも支持されてきた今日、地元でも理解いただけるようになってきたと、誇りと自信も持ち始めた矢先である。怒りよりも何よりも情けなくて哀しい。裸足に近い足ごしらえで入る田である。気付かず踏み込めば大怪我をしかねない。悪意のさまは古タイヤどころではない。

 人目を盗んでこのような仕業をなすとは、いったいどういう心持であろうか。 有機農業の意識も、農法も、技術的なノウハウも、時には販売や販路についても、希望する人には公表してきたし、農に取り組む人には仲間として、できる限りのアドバイスは惜しまないでしてきたつもりだ。それは自分だけが、自分の農園だけが立ち行けばいいというのではなくて、次の世代の為に本当に確かな食を、確かな農業を残したい、伝えたいと思うからだ。農業で生きていけると実体をもって示したいからだ。
 それなのに姿を現さないままに、このような悪意に満ちた行為をする者がいる。情けなくて口惜しくて哀しくて腹だたしい。けれど負けない。負けないで進もうと思う。この先こうした行為が再度繰り返されても負けない。
 二〇〇四年の新年の決意がこんな形で始まることは残念な事だけれども、こうした現実を知って頂きたいと思います。

 本年もよろしくお願いいたします。