一筆啓上 野良からの手紙 消費者の信頼に支えられて20年 浦部農園が古代米の有機栽培を始めて20年が過ぎました。米・麦・大豆という収益性の低い作目、膨大な設備を要する土地利用型農業で、助成金に頼らない安定経営を実現してきたことは、若い有機農業者を励まし、農外からの新規就農者に希望を与えてきたという自負があります。 信頼をつなぐために全品種検査 しかし、福島原発事故は私たちの自信と希望をものの見事に打ち破ってしまいました。 放射能汚染について農園は高い危機意識を持ち、世界で最も厳しいとされるウクライナ基準を超えないと、確認できた場合にのみ販売を行う方針をお客さまにお伝えして、新米のご注文をお願いしてきました。 放射能3項目とも1ベクレル未満 収穫後、全品種、圃場、ヌカまでも検査を実施、定量下限1ベクレルで放射能3項目全て検出されておりません。 群馬県下でも農園が所在する藤岡周辺はクールスポットであることを裏付ける数値で、乳幼児をおもちのご家庭でも安心して召し上がっていただけると胸をなで下ろしたのですが・・・ それでも激減!新米のご注文 安全安心こそが農園と消費者を結ぶ絆でしたから、たとえ農園の責任ではなくても放射能汚染ということになれば消費者が買い控えることは覚悟していました。 それでも、ウクライナ基準を超えなければ、再び支えていただけるという希望も持っておりました。 しかし、新米のご注文は対前年比80%近くの落ち込みとなってしまいました。 浦部農園を支えて下さい これほど急激にお客さまが離れるようでは、とても経営を続けることができません。それでも、収穫後の検査結果をお知らせすれば再びお客さまの信頼を取り戻すことができるという希望も持っております。検査結果をご確認いただきますようお願いいたします。 こんな状態だからこそ、浦部農園がどうして米・麦・大豆の有機栽培にこだわってきたのか、なぜ農外から研修生を受け入れ独立を支援しているのか、これまでの農園の歩みと、農業を未来へつなぐ思いをお伝えし、浦部農園をつぶさないでとの、渾身の思いをこめて、この小さなパンフレットを作りました。 ご一読いただけると幸いです。 浦部農園 今日までのこと 耕作面積約30f、この全てで有機栽培を行い、全ほ場で有機JAS認証を取得している、ときけば、多少とも農業を知る人は耳を疑います。それほどの大面積での有機栽培が可能なのか、親の代からの篤農家か、と。 けれど実態は、東京まで片道二時間半かけて通勤する夫と難病を抱えた妻とが二人三脚で取り組んだ兼業農家がはじまりでした。 農家の長男、家を出る 農家の長男であり農業後継者として期待されて育ったにもかかわらず、浦部は家業を継ぎませんでした。高度成長期の右肩上がりの経済成長のなか、農業だけが下降線をたどっていましたから、親もまた、強いて農業を継げとはいえない時代でした。 大学卒業後は東京都の職員となり結婚、子供も生まれマンションも購入して、それなりに生活は安定しましたから、何事もなければふたたび農業に戻ることはなかったでしょう。 突然、妻がベーチェット病に けれど32歳の時、突然妻が病に倒れました。風邪かと思った症状が治まらず、全身に炎症を繰り返し、幾度もの入退院を繰り返して、半年後にようやく難病のベーチェット病とわかりました。 その後ステロイドによる治療を開始しましたが症状が改善されるどころか一進一退を繰り返し、そのたびにステロイドの量が増えていくばかり。ステロイドによる副作用が顕著になる中、思い切ってステロイドを断ったのですが、かといって他に有効な治療法があるわけでもなく、次第に症状が重篤化、ついには目にも症状が現れるようになり、とうとう職場を辞めざるをえなくなりました。発病後8年、40才の春でした。 40才での帰郷、そして半農半X 働き手が一人になって経済的にたち行かなくなったこと、そして化学物質に過敏になった妻のため必要な食材を手に入れることが困難だったことが帰郷を決断させました。 帰郷はしたものの、年老いた両親と病身の妻、幼い子供を抱えていては仕事を辞めるわけにはいきません。 その日から片道二時間半をかけた兼業生活が始まりました。ただひたすら、家族のために。 有機栽培しかしない、それがはじまり 妻は甲田光雄医師の指導で青汁少食療法に取り組んでおり、そのために毎日大量の有機野菜が必要でした。けれど一番欲しいのは主食になる有機栽培の米とみそでした。今から20年前、まだ有機JAS法もなく、自称有機がまかり通っていた時代です。 信頼できる米もみそも見つからないなら自分で作るしかない。それが農園の原点です。以来20年、浦部農園では主食となる穀物にこだわり、有機栽培だけを続けてきました。 過酷な労働、そして経済的負担 農薬化学肥料をまったく使わないとなると、避けて通れないのが草とのたたかい。田植え後は来る日も来る日も田んぼに這いつくばっての草取りが日課です。専業の百姓でも音を上げる重労働を、東京への勤務と両立してこなさねばなりません。 その上、土地利用型農業ゆえの経済的負担がのしかかりました。国の助成を受けて建設された共同の乾燥調整設備(カントリーエレベーター)は有機農業者は使えません。農薬を使った米といっしょにするわけにはいかないからです。 収穫後、米にするまでには一連の高額な乾燥調整機が、そして消毒も何もしないで一年間保管するためにはこれまた高額な保冷庫が必要です。 どんなに農作業が過酷でも、機械代捻出のためには仕事を辞めるわけには生きませんでした。 夜中に草取り年中無休 それでなくても朝は早い。朝五時半には家を出て夜九時近くにならなければ帰れない。 その暮らしの中で毎日の草取りが不可避となると、あとは夜中しかできません。夜八時半を回った頃に帰宅すると、土間で着替えをしながらおにぎりをほうばり、頭にキャップライトを付けて野良に出ます。 真っ暗な中、キャップライトの明かり一つを頼りに草取りをして、夜が白み始めると家に帰ります。シャワーを浴びて着替えもそこそこに、またもおにぎりをほおばりながら駅へと向かう、夏の間は布団で寝たことがない・・・こんな暮らしを実に13年間も続けました。 土日はもちろん野良仕事、有給休暇は全て田植えと稲刈りで消え、年末年始は堆肥撒布。 よく体をこわさなかったものだと思いますが、玄米のにぎりめしと味噌汁というぎりぎりの食事が体を支えたのだと思います。 湯島天神で古代米に出会う 小康状態を多少は保てるようになった妻が、所用で出かけた湯島天神で古代米を売る男に出会いました。 黒とも赤ともつかない濃い色の米を買ってきて、これなら食べられるというのです。玄米菜食に切り替えた妻は体力がなく玄米を受けつけないことがたびたびありました。白米にするとしばらくはいいのですが、やがてベーチェットの症状が出る。玄米に変えると胃を痛める、といった状態が続いていたのが、古代米なら食べられるという。そこで追加注文をすると、もうない、作り手がいなくて残っているのは種籾だけだというのです。それなら自分で作るから種籾を譲って下さい、ということで始めたのが古代米の栽培でした。 人生を変えた一粒の古代米 からからと気持ちのいい風が吹き抜けるこの土地柄は有機栽培には適していても、いざ販売となると、新潟など名産地にかないません。わずかばかりの有機米を売ってみたところで機械代の足しになるかどうかという程度、専業農家になることなどとても不可能に思えました。 しかし、古代米が道を開いてくれました。今でこそ珍しくはなくなりましたが、農園が古代米の栽培を始めた当時は幻の米といわれ、大変高価なものでした。 稲丈170センチを超え、高度な栽培技術を要しますから、栽培しようという農家もなかったのでしょう。農水省がスーパーライス計画で色素米を世に送り出すまでは探しても手に入らないといわれたほど稀少でした。 古代米で販路拡大 健康回復 妻の食養生に必要だから作った古代米が、口コミで売れるようになり、販路が広がるにつれて栽培面積も増やさざるをえなくなっていきましたが、面積を増やせば兼業が難しくなります。専業化してまで作るなら、再生産費をカバーする金額で買って欲しいと思いました。 それだけの金額を支払う人がいるだろうかとの心配をよそに、有機栽培の古代米はどうしても必要な人に買い支えられて、販路を切り開いてくれました。 多少面積が増えたくらいでは専業にはなれませんが、面積が増えれば手がまわりきらなくなります。 見かねて手伝いに出始めた妻は、労働が幸いしてか次第に健康を回復、しっかりと農作業ができる体になりました。 専業化の実現と妻の健康回復、古代米との出会いは人生を変える出会いでもありました。 乾田地域における有機稲作技術の確立 ひたすら土にぬかづく日々から教えられたこと。そのひとつがこの土地ならではの有機栽培の技術です。 これまで有機稲作の技術としては、冬水田んぼ、2回代掻き、米ぬかペレットに代表される、湿田地域に適した技術だけでした。成否の鍵は水管理にありますから、水が潤沢にある地域では成功しても、群馬県のような乾田地帯では水利慣行に阻まれて深水管理ができないことがしばしば起こり、失敗を繰り返していたのが現実です。 しかし農園では在来種の大豆の栽培を行う中で、大豆あとは水田雑草が抑制されることに着目、試行錯誤を繰り返しながら米・麦・大豆の二年三作方式による抑草技術を確立してきました。 研修生の受け入れと独立支援 もう一つ見えてきたことがありました。 食はいのちの基。それなのに生産の場がいかになおざりにされているか、中でもいのちを養う基幹作物である米・麦・大豆が大切にされていない。そのうえにこの自給率の低さ、危うさ。平均年齢66才という担い手の高齢化、全体の0.5%にも満たない有機農業、何一つ改善されないままにTPPへと進もうとするこの国の未来。 農薬に頼らない農法、助成金に頼らない経営、それが不可能ではないと実践で示すことで、後に続く若者に希望を与えたいと思いました。そしてひとりでも多くの若者が自立した農業者として地域農業を再生することを夢見ました。と同時に、経営が安定するまでに私たちがなめた辛酸を経験させたくないとも思いました。 非農家出身者の若者に有機農業志向は顕著です。しかし現行の制度の中では、非農家出身の若者が農業者となるには障壁が多く、個人の力では突破するのは困難です。 農園ではこうした非農家の若者を受け入れ、2年間の研修プログラムを組んで有機栽培の技術を指導、農園の圃場を切り分けるなどして独立を支援してきました。 すでに7人の若者が独立を果たしています。 オーガニックファーマー・生き直す仕事 研修生の中には難病で研究職をあきらめて農園の門をたたいたもの、IT産業でつぶれそうになって農業にシフトしてきたものなど、自らの再生をかけてやってきた若者が大勢います。若い人たちの雇用の場がどんどん過酷になっている今、農業は人間らしさを取り戻せる数少ない労働の場かもしれません。農地をよみがえらせ、いのちを育て、食べる人を健康にし、自らも再生する・・・私たちはオーガニックファーマー、生き直す仕事をしています。 この先も農園が存続できますようお力をお貸し下さい。 |
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