No.52 特別版 その2

             一筆啓上 野良からの手紙   その2

     もう一つの原点

   10年前の手記から
        わたしの人生の転機

前号で、妻の難病が原点と書きましたが、今日までどんな場合も私たちを支え続けてきたもう一つの原点があります。そのことをかつて一度だけ書いたことがありました。その日から10年近い歳月が流れましたが、そのときの思いにいささかも変わりはありません。
 JAグループの月刊誌「家の光」が2002年に募集した「人生の転機」という表題の手記に応募、優秀賞をいただいた文章です。2002年5月号に掲載されました。
 この手記を書いてから、また10年が過ぎました。圃場面積やお客さまの数などずいぶん多くなりましたが思いはいまも変わりません。。農園が転機にあるいま、もう一度原点に立ち戻ってみたいと思いました。
 私事で恐縮ですがよろしかったらご一読下さいませ。

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家の光読者体験手記

わたしの人生の転機   転載

あの日があって、今がある。
 
 古代米各種、特殊米、雑穀、麦、それら多品種を約4ヘクタールで有機栽培し、収穫する全ての量を自力で売り切る。
 そう書けば、昔からの篤農家、専業農家、と人は思うのではなかろうか。けれど実態は、東京まで片道2時間半かけて通勤する夫と難病を抱えた妻とが二人三脚で取り組む兼業農家だ。
 農家に未来はない、ぼくは農業を継がない、と十代の少年だった夫が親に突きつけた将来設計は、故郷を離れ、大学へと進み、都会で職を得ることだった。彼と彼の家族がいずれ離農しなければならないという覚悟と向かい合っているころ、わたしはわたしで両親に対してもう一つの決断を突きつけていた。
 進学のため親元を離れたい。昭和40年代、まだ女は職場の戦力ではなく花と思われていた時代、女子若年退職制度や結婚退職が公然と認知されていた時代、女が4年生大学を出てどうする、まして一人暮らしなどとんでもない。そう反対する父に、自分の口は自分で養うと宣言し、間に入って気をもむ母に、人生の決定権はわたしがもつ、お母さんのような人生は送りたくないと放言し、後に母が嘆息して語ったように「後ろ足で砂をかけるようにして」故郷を離れたのだった。
 学生運動の最後の熱気が充満している大学で新しいエネルギーと挫折を目の当たりにしながら私たちは出会った。結婚したとき、二人とも東京都の職員として職を得ていたし、離農を覚悟して親元を離れてきた夫に農業を継ぐ意志はなかった。そのまま何事も起こらなければ、私たちの人生は農業とは無縁であったと思う。

自立と挫折と

 けれど長女が2才を過ぎたとき、わたしの体が不調を訴えた。風邪かな、と思った症状が治まらず、激化していくばかりか、繰り返し、繰り返し全身に炎症を繰り返し、そのたびに激しい痛みに焼かれるような日々が始まった。
 難病ベーチェットの発症だった。幾度もの入退院、幾度もの病欠。そのたびに実家の母は父をおいて上京し、幼い娘はわたしのいない夜を夫の胸で過ごした。いつわたしを失うかといつも不安で、わたしばかりを見つめていた娘、家事育児を引き受けてくれた夫と母、支え励ましてくれた職場の同僚。自分の人生は自分で決める、とかつて言い放ったわたしは、ベッドの上で大勢の人の世話になり、治る見込みもない。それなのに仕事を辞める決意はつかなかった。仕事を辞めたら独立した人格を失うようで恐ろしかった。
 だから少しよくなると職場に復帰し、そしていくらも立たないうちに再発する。そのたびに身のすくむような思いをしながらわたしは仕事を続けた。
 いま思うと、どうしてそんな壮絶な日々を送ることができたのか、自分でも信じられないくらいだ。必死だったのはわたしだけではない。夫も娘も、父も母も、周囲の人たちみんながわたしのためにどんなに無理をしてくれたことか、それなのにわたしの症状は一進一退を繰り返しながら少しずつ悪化していった。

 二人目の子を授かったあと一気に症状は悪化。このままいけば失明、という状態にまで追いつめられて、必死にしがみついてきた職をわたしはとうとうあきらめたのだった。
 医者も薬もだめなら空気と食べものしかない、と夫に励まされ、夫の郷里に入ったのが40歳のとき。 夫はわたしのために所有するすべての田畑を有機栽培に切り替え、米と野菜を作ってくれた。知人に勧められて始めた青汁玄米食も功を奏し、日がな一日床についている状態ながら、薄紙をはぐように体の不調はやわらいでいった。しぶしぶ転校してきた長女は友達ができなくて最初の2年を泣き暮らしたが、自分で志望した私立中学校に進学してからは笑顔を取り戻した。合格発表の日、「この学校が母校になるのね」と言ったときの晴れやかなあの子の笑顔はいまでも胸に刻まれている。
 あなたは自立自立と言い張ったけれど、こうして家庭にあって穏やかに暮らすこともいいことでしょう、という母に素直に頷ける自分がいた。小さな軋轢はあったけれど、つつましく暮らす幸せに始めて気づいた日々だった。けれどそんなささやかな幸せも2年あまりしか続かなかった。

 11月7日。長女の突然の発熱、嘔吐、意識障害。救急車で搬送された病院での必死の治療に一度は意識を回復しながらも、12月15日、長女は逝ってしまった。13才だった。ヘルペス脳炎。原因はわからない。強いていえば免疫力が低かったとしか言いようがない、といわれた。
 免疫力が低いってどういうこと?当惑し、納得できないまま、娘の担当医だけでなく、自分の主治医にも、いとこの医師にも聞いて回った。聞きすがってわかったこと、それはアトピーの子はそうでない子に比べ免疫力が低いということ。
 長女のアトピーは学齢期には消えていたが、思春期にさしかかってまた現れ始めていた。母乳にこだわり、食事にこだわり、どんなに忙しくても食べさせるものには細心の注意を払ってきた。少なくとも近代栄養学の知識の上では。さらに追い打ちをかける情報があった。母乳はダイオキシンで汚染されている、ということ。そればかりではない。「栄養豊かな」食事の取り方に弊害があるという情報。

 どうして?どうして?繰り返し問い続けるたびに行き着くのは、難病の母から生まれたから弱かったのかということ。どう考え、どう思い悩んでも、最後にはわたしはわたし自身を責めずにはいられなかった。

生きているという実感

 逆縁をみたわたしに周囲は優しかったけれど、その優しさがまた骨身に応えてつらかった。痛ましげにわたしを見る人たちの遠慮がちの視線もつらかった。何をしてもつらく、生きていることがつらかった。思い詰めるばかりの日々、ベーチェットは再発し、娘を亡くした半年後には狭心症まで発症した。生きる意欲をなくしたわたしは、それまで医者に禁じられていたことを全部やってみようと思い立った。自殺しようとしたわけではない。ただ自分をいたわるのにうんざりしていたのだ。子を亡くしたというのに自分をいたわってまで生きる意味がどこにあろうか。

夜昼なく田んぼにかがみ込む夫を見ながら一度も入ろうとしなかった田んぼに入ってみた。縁あって湯島天神様の市の日、門前の露天商からわずかばかり買い受けた古代米の葉は肌が染まるかと思うほど、色濃く、硬い。その株元には、まるでイネを絞め殺そうとしているかのようなおびただしいコナギや諸々の雑草。びっしりと張りついたコナギをむしりとるたびにイネがほっと息をつくのが聞こえるような気がした。
 炎天下、泥田の中で草取りをしながら、これまでたった一人で連日このようにして土にぬかづいてきた夫を思い、13才で逝ってしまった娘を思い、こうして生きている自分を思った。クモの巣、カエル、トンボ、ツトムシ、そのほか名前も知らない虫たちがうごめいている中に終日あって、ひたすら草を取るのは哲学的ですらあったと思う。
 
 いつか7月が過ぎ8月となり、そしてある日、イネの花が咲いた。目にしみるほどの深い緑のイネの、その穂先が炎のように赤く輝いている。その美しさに呆然となった。
 生きている、とその時突然思った。生かされている、とも思った。病をかこち、職を失い、娘を亡くし、生きる努力すら捨て去ったと思ったのに、生きている。赤米の穂を見た瞬間、わたしの心にも命の日がともったような気がした。

 以来10年。今では全国に二千の顧客をもち、4ヘクタールの収穫物を全て産直で売り切っている。毎年口コミでお客さまが増えるが、そのなかには重いアレルギーやアトピーに苦しむ子供たちもいる。難病と闘う人や、障害を抱えた人たちもいる。こういう人たちは、妥協のない農法で作られた本当に安心できる食を求めている。

 販売しようと思って古代米を作り始めたわけではなかった。けれどこの米を必要としている人がいるということに励まされて米作りに取り組むうちに、いつしかここまでたどり着いた。その中で見えてきたたくさんの問題。食は命の基(もとい)。それなのに生産の場がいかになおざりにされているか。なかでも命を養う基幹作物である米麦がたいせつにされていない、そのうえにこの自給率の低さ、危うさ。
 生きているなら生きるに値する生を生きよう。初めて田んぼの中で赤米の出穂を見たときに思ったことは、こうして農業者として生きることに結実しようとしている。
 かつてそうありたいと願った生き方とは違うけれど、いま、いちばん自分らしく生きていると思う。
 今にして思う。意図しなかった生き方であったとしても、それが最もふさわしいといえる生き方もあるのだと。古代米との出会いはわたしにそのことを教えてくれた。
 今のわたしを見たら、亡き父母はなんと言うであろうか。才能に恵まれ、十分な教育を受けながら父の背後から出ることをせず生きた母の思いが、今なら少しわかる気がする。平凡に慎ましやかな人生を歩ませたいと願った父の思いも今ならわかる。それでも「後ろ足で砂をかけるようにして」生まれた家を飛び出した日のことを後悔したりしない。その日の高揚は今でも懐かしく思い出す。
 あの日があって今がある。ひたむきさや誠実さと同様に、過ちや愚かしさもまた、後の人生を準備する。 人生の転機はある日突然に訪れるのではない。日々の積み重ねの中で準備され、ある一瞬に凝縮するのだ。
 これからまだしばらくはこの米をつくっていけるだろう。けれどいつか次の世代にこの米を託す日が来る。
 農を業(なりわい)として確立するためには、血縁に頼らない継承が必要だろう。その着地点を模索しながら、あと10年、夫と寄り添ってこの道を歩いて行こうと思う。

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最後まで目を通していただきありがとうございました。
 思えばあの日以来、いつもいつも守られてまいりました。いま、農園が陥っている苦境にしても、もっとひどい状況もあり得たはず、それは奇跡のようにクールスポットに守られて汚染を免れたという事実一つとっても、まだ守られていると感じます。
 同時にそれは、まだまだがんばれという声でもありましょう。我が子を護りきれなかった贖罪も、まだ終わっていないということでもありましょう。

 この手記を書いてからの10年で、有機稲作の技術を確立してきましたし、血の継承によらない農業の継承を目指して、研修生の受け入れ育成も開始してきました。手記を書いた当時は50才、60才にはリタイアと思っていた節もありますが、その年になってもまだがんばれる自分がいます。
 有機農業をスタンダードな農法として根づかせること、一人でも多くの若者の就農を支援して地域農業を再生すること、そしてこれからはTPPの問題など、さまざまな課題がまだ途中です。
 日暮れて道遠しの感もありますが、残された人生を生ききることは、護りきれなかった娘の人生をも生ききること。あとどれくらい時間が残されているかわかりませんが、命ある限り前に進みたいと思います。

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